ミュシャの絵が好きで、スラヴ民族や、チェコの歴史を調べるんだけど
チェコとスロバキアは他国の占領下にあったりくっついたり離れたりで
1900年以降かなり複雑な経緯をたどっているから
そんな時代の変遷の中でパリへ行ったりアメリカへ行ったりしていた
当時のミュシャが受けた影響を知ろうとすると
複雑すぎてなかなか大局を掴めません><
スラヴ叙事詩も、そんな時代の流れに大きく影響を受けているわけですが
この絵は
「スラヴ叙事詩 Cycle18 菩提樹下でスラヴの若者たちの誓い」
という作品ですが、
20作品中この1枚だけが、多くの研究家に「未完」と認識されているそうです
未完と言われる所以は、
中央の子供たちの周りを囲んでいる数名の大人たちの顔が描かれていない
ということからきてるそうですが
未完というけど?この絵がミュシャの遺作ではないし
ミュシャは完成した20点をプラハに送ったとされてるし
ではなんで未完のまま筆を止めてしまったのか?
その理由として時代の背景を上げる研究家が多く居るようです
チェコは、19世紀にはオーストリア・ハンガリー二重帝国に、第一次世界大戦後はドイツ、そして第二次世界大戦後はロシアに、それらの国々に軟禁的支配をされてきた歴史的経緯をたどってきました。
ミュシャがスラヴ叙事詩を描いていたおよそ18年間は、第一・第二次大戦のさなか、国そのものの社会情勢が大きく移り変わっためまぐるしい時代でした。
チェコの歴史に触れてスラヴ民族の尊厳を具現化したミュシャのこれらの作品は、支配する側にとっては邪魔な存在だったわけです。
そういった背景をミュシャも十分に理解していたとして・・・
実際この絵は、オーストリア・ハンガリー二重帝国の支配に不満を抱いた汎スラブ主義を唱える若者たちが青年チェコ党を結成し、その集会が当局に弾圧を受けたという史実を元に描かれているそうで、中には、その当時に青年チェコ党の集会に出席していて、晩年は体制側の著名人になった人も多く居たらしいのです。
若い頃には汎スラブ主義者だった人物が、後に支配体制に与して政財界の要職に就いたりもしたわけで、そういった人々を、
見る人が見れば誰だか特定できるようにリアルに描いてしまうのはまずいだろうと、
そういったミュシャの気遣いが『顔を完成まではっきりとは描かずに』仕上げる結果となり、それ故に多くの研究家から「未完のスラヴ叙事詩」と言われているのだとか?
実際はどうなんでしょうね?
ミュシャは1939年まで生きていた人なんだからかなり近代の人でしょ・・・当然、当時の関係者は顔の描写が不完全であることにツッコミを入れたはずです。そんな事実を記してあるようなミュシャ本人に質問した記録はないのでしょうか?
いやきっとあるに違いない!それを見た人が上記のような説を述べているのかもしれない。
最近またミュシャ関連書籍を2冊仕入れました。
来年の春にスラヴ叙事詩全20作品が来日するとあっては、ミュシャ人気に火がついて絶版古本が売り切れてしまうのでは?と危惧したからです^^;
1冊は、おそらく書籍としては出版はされてはいない?日本で過去に開かれた某「ミュシャ展」の目録
(これは激安だった)
もう1冊は、半世紀以上も前に書かれたミュシャの伝記
(これは自分の蔵書の中でも、一番高かった本に圧倒的な大差を付けて高額書籍のトップに躍り出た><)
これらを紐解けば、あるいは何かわかるかもしれません^^
この本を買ってしまったがために8月までは一切の無駄遣いができなくなってしまった;;
(といいつつ、SLで高価な飛行機を買ってしまってますが)
とにかく出費の元は取れるように取り組みたいと思います。
(だけどSLとJOGの美術館の充実化のためだから、元を取るどころか逆に地代などの出費がかさむわけ。もちろん入館料は0円です)
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